奈良~平安時代 (710-1192)
お茶は、日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。
お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。
鎌倉~南北朝時代
(1192-1392)
日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)は、
二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見聞きしました。
帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説きました。
禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透していきました。
さらに南北朝時代になると、茶を飲み比べ、産地をあてる「闘茶」も行われました。
室町~安土桃山時代 (1336-1603)
足利義満(1358-1408)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉(1537-1598)にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されていきました。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工されました。
江戸時代 (1603-1868)
茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなりました。
一方、江戸時代では一般庶民にも飲料としてのお茶が浸透していたことが当時の記録から伺うことができます。
庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だした)ものだったようです。
1738年、宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)は、製茶方法を丁寧な方法に改めて、優良な煎茶の製法を編み出し、煎茶の祖とよばれています。 これまでにない緑色の水色と甘味、馥郁(ふくいく)とした香りは江戸市民を驚嘆させました。
宗円が生み出した製法は、「宇治製法(青製煎茶法)」と呼ばれ、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。
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